2021-04-27 第204回国会 衆議院 地方創生に関する特別委員会 第6号
以前は、参勤交代のときは、熊本城から大分の方に行って、大分の鶴崎から瀬戸内海を船で通って大阪に上がって江戸まで行っておりましたので、参勤交代の一泊目の宿場町でございました。 それで、人口は一万五千から一万六千ぐらいだったんですけれども、一九七五年ぐらいに、近くに熊本空港ができました。それから、九州縦断の自動車道路というのが熊本市近郊を走ることになりました。
以前は、参勤交代のときは、熊本城から大分の方に行って、大分の鶴崎から瀬戸内海を船で通って大阪に上がって江戸まで行っておりましたので、参勤交代の一泊目の宿場町でございました。 それで、人口は一万五千から一万六千ぐらいだったんですけれども、一九七五年ぐらいに、近くに熊本空港ができました。それから、九州縦断の自動車道路というのが熊本市近郊を走ることになりました。
先日は、別の委員会だったですけれども、うちの妻と大臣の奥さんが小田原の出身だという共通点もありましたし、今お伺いしたら宿場町だということで、私の住まいの熊谷も、東京から大体七十キロぐらいで、旧中山道の宿場町として栄えてきたという歴史もあり、船を使っての、中山道を上ってきた荷物が、利根川だったり荒川だったり、そこで中山道から船に乗り換えて江戸に荷物を運んだなんて、そんな話も聞いております。
○武田良介君 この崩れた護岸の、ちょっと写真が写りが良くないですけれども、すぐ向こう側は、本海野宿といって、旧宿場町なんですね。観光地でもあると同時に、そこにお住まいの皆さんもいらっしゃいます。ですから、非常にここの護岸が崩れたということに対して恐怖を覚えておられる。
例えば、福島県の歴史的な宿場町、大内宿では、人里離れた山間部に立ち並ぶカヤぶき屋根の民家群を再生し、魅力的な観光資源として開花させました。このような地域の魅力を磨いて経済を活性化させる意欲的な挑戦を、自由度の高い地方創生推進交付金などによって応援します。
実際に起こったことというのは、大和町吉岡という宿場町があるんですが、以前、そのときの事情なんですが、今でいうと交付金、交付税交付金のような補助金ですね、これがある事情によって吉岡には一切払われなくなった、もらえなくなった状況にありました。
要は何が言いたいかというと、あれなぜあの中山道、東海道できている、やっているかというと、まさに宿駅伝馬制というのをつくって、宿場を造って、そこに問屋場を造って、要はロジスティックできる、供給できる、補給できる仕組みをつくったからこそあの街道筋ができているわけですよね。 それを見ていまして思ったのは、中山道なんか特にですよ、何であんな山の中行かなきゃいけないと。
品川は、私は元々品川の区議会議員をさせていただいておったんですが、品川宿といって歴史ある宿場町であり、当然新幹線も止まります。さらに、今後はリニアモーターカーの始発駅として東京の玄関口として重要度が増してくる地域でございます。
私の地元の知立は、江戸時代から東海道の宿場町として栄えてまいりました。現在も西三河の交通の要衝として、名鉄知立駅は、名古屋本線と三河線が交差する重要な乗りかえ駅になっています。しかし、踏切では慢性的な交通渋滞が発生しておりまして、また、鉄道による市街地の分断が町の発展の妨げになっております。 知立駅付近連続立体交差事業は地元の長年の悲願です。
行きますと、後ろに山を控えているところですけれども、この北条商店街というのは、筑波山神社の登山口にあって、江戸時代から市が立つ宿場町で、当時のにぎわいをほうふつとさせる商家の古い店蔵などが立ち並んでおります。 しかし、近年、御多分に漏れず、大型店の出店などでなかなか厳しい状況にある。
北条商店街は、筑波山麓の登山口にあって、江戸時代から市が立つ宿場町で、当時のにぎわいをほうふつとさせる商家の古い店蔵などが建ち並んでいる。しかしながら、近年、大型店の出店などで、なかなか元気が出ないという状況になっています。
今、連続立体交差事業の意義についてもお答えいただきましたけれども、知立というのは実は東海道の宿場町なんですね。江戸時代にも交通の要衝として発展をした町であります。ぜひともこの事業をしっかりと進めていきたいと思いますので、今後とも引き続きの御支援をお願いしたいというふうに思います。 もう一つ、この事業に関して地元から御要望があるのは、鉄道事業者への委託工事の積算だとか精算の透明性の問題です。
そこから私どもも何人か採用させていただいたりしているわけですけれども、まだ今のところは、司書資格を持ったり学芸員資格を持ったり、あるいは大学院レベルで歴史研究をしてきた、歴史文書を読むことが得意だとか、あるいは中世文書の宿場の文書を読むことができる、そういう人たちがまだ多くて、体系的な形での教育体制というのができていません。
さて、我が国では、城郭や武家屋敷、町家、神社仏閣などの歴史的建造物をよすがとしながら人々の生活が営まれ、その歴史の流れの中で、城下町、門前町、宿場町といった地域固有の市街地が形成をされてきております。このような地域の歴史を伝えるまちづくりは、そこに暮らす人々の誇りやアイデンティティーにつながるものであると同時に、有力な観光資源として地域の活力の源になるものでもあると認識をするところであります。
例えば、街道、宿場、本陣、旅籠、門前町、宿坊そして色町などが整備されて、当時移動が制限されていた庶民であっても、いわゆる社寺参拝は例外としてできました。人々は、お伊勢参りであったり、四国八十八カ所めぐり、湯治、花見、花火などを通じて体と心の安らぎそして楽しみを得ていたということであります。
新宿の名前は、甲州街道の宿場として江戸の時代に内藤新宿が開設されたことに由来しています。新宿区は元々宿場のまちとして誕生したわけです。 ところで、皆さん、新宿区といいますと、新宿駅西口の超高層ビル群や歌舞伎町といった繁華街のイメージを思い浮かべるのではないでしょうか。実際は、緑濃い住宅街や地域の風情ある商店街も新宿のもう一つの顔です。
先ほど、秋田県やソ連だとか言われますけれども、私どもは東海道の宿場町の時代から、東海道五十三次ありますけれども、そのときに、私どもはそれを自分で私どもの町が利用していたんだろうと思いますけれども、明治になりますと、この東海道五十三次が廃止になりますと、今度、鉄道は岐阜の方を回ると。それから、また新幹線も向こうを回る。高速道路も名神高速道路を回る。
それからもう一つは、原点は、皆様方も御承知のとおり、人馬の時代は宿場町、そして鉄道の時代は駅前、そして今や、モータリゼーションのときには郊外のインターチェンジ、そして住宅と市内を結ぶ、職場を結ぶバイパスの近くに商業の立地を変化させていく。これは、人のいるところ、交流するところに店を構えるというのが商人としての常識でございます。
御存じのとおり、東海道五十三次の五十番目の宿場町ということをまず御報告申し上げておきます。それから、皆さん方も当然御存じのとおり、滋賀というところですから、滋賀は近江ですね。近江というのは、かの戦国大名が、近江を制する者は天下を制すとまで言われました、すなわち過去から今日に至るまで戦乱の中にずっと巻き込まれてきた地にあります。
最近のこの日本列島というのは、私が断言するその経験も実力もないわけでありますけれども、金太郎あめ状態でありまして、古くは、歴史の本を見ますと城下町、門前町、宿場町なんとあるわけですけれども、よく言われているのは、新幹線の駅を降りるとどこの駅前ももう同じようなそんな風景、例えばサラリーマン金融のでかい看板が駅前にどんとある、あるいはキャッシュディスペンサーを含むお店があるような、そんな全国画一の町の中
そうしますと、今申し上げました北本の荒川のビオトープ、上尾市の三ツ又沼のビオトープ、そして、北本と上尾に挟まった真ん中に、桶川という、これも古い宿場町なんですけれども、ございます。桶川の事業について、特に学識経験者の方のお話を伺いますと、カールスルーエのドイツの例も挙げられて、このビオトープというのは、一個一個独立しているのではなくて、つながっていた方がより効果的だというお話がございます。
昔は歩け歩けで、江戸時代のときは宿場町等が栄えてまいりましたけれども、鉄道ができてから、私が鉄道へ勤めているからというわけではございませんけれども、鉄道とともに私は発展してきたと言っても過言ではなかろうかと思うんです。